昭和四十八年八月二十九日 朝の御理解


御理解第四節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の云うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神というにおよばぬ。金光大神、助けてくれと云えば、おかげを授けてやる。」


 前半のところは説明ですね、だから金光様の御信心を頂くものは、皆だーれも判っておる事、成る程、天地の親神様が、ここにこういう風に仰せてあります様に、神様からも、金光大神は恩人、又、そ.れを取り次いで頂いて、おかげを頂く信者氏子も又、金光大神のおかげで、天地金乃神のおかげを受けられる様になるのですから、両方からの恩人は、成る程、此の方金光大神だと云う事が判ります。
 ですから、私は大事なところはそこからだと思うんです、金光大神の云う事をよく守って背かぬ様信心せよとこう仰せられる、お願いをし、御理解を受け、だからそれを頂く、守るという事も、そうですけれども、金光大神が、常日頃よく云うておられる事、いつもこの事を、判らせ様としておられる事、それが、本当は金光大神の云う事に背かぬ様だと思うのです。
 なら、金光大神がどう云う事を芯に仰有っとられるだろうか、中心にね、
 信心は本心の玉を研くものぞと、
 信心は日々の改まりが第一ぞと、
 そして、おかげは和賀心にあるんだぞと、
 その和賀心と云うのは、本心の玉を研かなければ、日々の改まりを大切にして行かなければ、和賀心は生まれないのだという事を、あらゆる角度から説いておられる、それが、金光大神が云われる芯はそこだと思うです、だから、その事に背かぬ様に、信心させて頂いておれば、天地金乃神と云わず、いわゆる、金光様だけで助かるんだという事。
 という事はどう云う事かと云うと、金光大神助けて呉れと云う事は金光大神のお取次ぎを頂くという事、ここにまさかの時はと云う言葉が使ってありますから、何か、突発的な事が起こった時の事の様に、私ども思うとりましたけど、そう云う事もありましょう、アッという瞬間の時に、金光様と云うて助かった例が幾らもありますから、けどまさかの折という事は、どうでもおかげを受けなければならないと云う事が起きて来るでしょう。
 昨日も、私がここを下がってから、ある方がお参りして見えた、いろいろと話さして頂いとるうちに、その事が話の中心じゃなかったですけれども、もう、今月、来月、さらい月はもう、手形がもう、纏まった手形があって、とてもこの度は、人間の考えでは及びもつかない、だから今度は、もう倒産してもよい、そして、家族中のものがシャンとすれば、それでよいと思いますと云った様な話をしている、それがお取次ぎをお願いしますと云う事じゃない、それが、只、話をしている、そしたら、私が頂きます事がね、うちわをクリーニング屋さんから、うちわを頂いておる、それには、OKクリーニングと書いてある、それを頂くんです、だからそげな事を云わずに、お取次ぎを頂いて、お願いをして、おかげ頂かにゃいけんですよと云う事なんです。
 又改まってお取次ぎ願われるだろうから、その時に私は、その事を話そうと思うて、申しもしませんでしたけれども、神様がOKして下さるのですよ、なぜって、日頃信心が出来ているから、だからですね、まさかの折とは、そう云う時なんです。
 今度、このお願いは神様に申しあげても少し無理だろうと云う様な、そういう様な時が、まさかの時なんです、だから、お取次ぎを頂いて、なら神様がOKして下さるのだから、うちわと云う事は、家和の物と云う事でしょう、家中のものが本気で改まったり、研いたり、さっき、金光大神が云う事に背かぬ様にと云う、そこんところに又改めて焦点をおいて、家中が云うならば、綺麗になるという努力をすれば、神様は、から見れば決して難しい事じゃないぞと云うておられるんです。
 神様は、OKしとんなさる、ためにはこちらのものが、家和中のものが改まって研いて行くという事、研いてしまわなければ、改まってしまわなければと、事じゃない、そういう厳しい事じゃないです、その気になると云う事、皆が、これは本気で改まらにゃなんね、本気で一心にいっちょ改まらにゃいかん、本気でいっちょ改まらにゃいけんねと云う様な、話合いのもとに、改めて、お取次ぎを願わして頂くと云う事なんだ。
 昨日、これは午前中の奉仕の時に、ある方がお参りして、お願いをなさった、そしたら神様が、その前の事ばお願いせじゃこてと云う事であった、その事をお願いすると云うよりか、もいっちょ前の事が、あろうがと、そこをお願いしなきゃいかんよと、私は御心眼に、アルミ弁当に御飯が一杯詰っておる、それを箸を使わずにね、弁当をこういうふうに持ってから、こうこうして食べよるところを頂いた、顔を付けて、だから隅々まで頂く為には、5本指で頂いて食べんならん事になる、ままにはなるかも知れませんよ、それこそおかげになるかも知れませんよ、けれどもお取次ぎを頂かずして、ままになるとは、そう云う事なのです。
 箸と云う事は、お取次ぎを頂くという事、だから、そしたら顔をまっ赤にしてから、一寸お届けのしにくい事だったのです、その前の段という事で、実は、先の事がと、そうじゃろうがと、その事から先ずお詫びをして、次のこのお願いをせじゃこてと云うて、お話をした事でした。
 だから、金光大神の云う事に背かぬ様にと云う事はね、徹底すればそう云う事になるのです、お取次ぎを頂いて、お取次ぎを願って、お取次ぎを頂いて帰る、だから、お取次ぎを願えば、お取次ぎを頂かして下さる、いわゆる、御教えを下さるのですから、それを頂いて帰って、金光大神の云う事に背かぬ様にと云う事は、その事を守って願えと云う事。
 2.3日前でしたか、夏休み、学院の方が夏休みですから、次々とここえ見学というか、参拝があります、先日も広島の方から、いつも不思議な縁だと思うのですが、耕ちゃんが養子に貰われましたところ、あそこの教会のご信者さん、そして、人がどんどん助かる事になったもんだから、一寸ここと同じ様な事で、もう65歳にもなられる、まだ若いですけどね、それで、泊まり込みで合楽の信心を頂きたいと云うて、光明を頼って見えとりました。
 その方が帰るから送りださして貰いよったげなら、又、今、学院で一緒に勉強しとる方が、親子3人連れで見えたと云うて裏の方へ云うて来た。
 今日は、忙しいところえそりゃ、丁度あのマル少の若葉の集いの準備がありよる時でしたからね、それから、お会いしていろいろお話を聞かして頂いたんですけれども、そしたら、その奥さんというのが、上野先生の同期なんです、それで、ご主人がご養子ですから、全然信心がなかったのですけれども、今度学院に入られて、熱心に求道心が非常に強いご夫婦でした、お母さんが非常に、もう十何年の布教で、ご比礼も立っておる教会です、山口県で、それが、丁度私が面接するのに、1,2時間待たせましたから、ここで、その朝の御理解を5回頂かれた、そして、まあだ頂きたいと云われた。
 今朝の御理解の素晴らしい事、本当にそれこそもう、5回も続けて頂いてもまあだ頂きたい、そして、その中から、判らんところを親先生お忙がしうあんなさいましょうが、ここだけは頂いて帰りたい、からと云うて、私の体の空くまで待って居られた、私は、本当にその熱意にうたれました、そして、私も、時間をかもいなしに、まあいろいろとお話をさせて頂いた事でした。
 その時に、上野先生が後で話しとりましたが、待つとる間に大変恐れ入りますけれども、ここの御神饌室を一辺見せて頂きたいと云われた、どうぞと云ってから、上野先生は、もう平気で案内した、それで奥さんの方が、教師の資格を持っておりますから、入られたら、ご主人もすぐ後から入られ様とした、そしたら、「あ、いけません、いけません」と云うてから止められた。
 神饌室と云うのは、そんなに、いわば、神聖なところだと云う事です、そう云う意味で、合楽なんかは、本当に相済まん事だと思うんです、第一、冷蔵庫の様に、ゴミ箱が置いてあるなんて、とても、とても、そういう先生のところ等では、ビックリされる事だろうと思うです、合楽では、これからおかげを受けていかねばならんと思ったんですけれども、それを聞かせて頂いて、成る程、人が助かる筈だなと私は思ったです。
 そこで、私はね、本当に私は神様をそういう風に、敬虔なその思いで、頂いておられる先生だから助かる、もうそれこそ神様を、もう押し頂いての頂き方、そこで、ならここではね、神様のお働きを大事にさせて頂いておるんですよと云うておきました。
 どうして合楽におかげを頂きたいと云う事になったかと云うと、先日から、平田さんがお話においでられた、そして、現代の金光教の教会において、日本一と云うなら、合楽教会より他にないと云わしゃった、こげな素晴らしい教えを見、説いておるところは他にないと、一辺おかげ頂いてみなさいと、云われたから、参りました。
 それこそ、穴があれば入りたい気持ちですけどもね、そういう風に平田さんから教えられた、成る程、云われた通りにその御教えの素晴らしいのに驚きました、5回も頂きましたけど、まだ頂きたい思いですよ、皆様、そういう、毎日毎日御理解を頂いておられる訳ですけれども。
 昨日も、上野先生の学院の時に、京都の都会の先生ですけれども、お手紙が来て、今度のおかげの泉を見ておかげ頂いた、そして、おかげの泉の頂き方が足りない事に、本当に相済まんと思う、その事のお詫びと、この事のお礼を申し上げて下さいと、お初穂を送って来た。
 と云うのはね、この前のおかげの泉に、少なくとも10回は読みなさいと云う事が書いてあった、だから、今まで頂き方が足りなかったとこう云うのです。
 本当に云われて見れば、10回読めば読む程、おかげが受けられると云う事をです、お礼を申し上げて下さいという事であった、それほどしの事です、金光大神が教えて下さるほどしの事は、それを私共が只聞き流したと云う事であっては、金光大神の云う事を聞いておる事にならんのです。
 それは、それぞれの行き方が、ありますから、神様をその様に敬虔な頂き方をする様に、合楽では、事柄そのもの、成り行きそのものを敬虔な思いで頂くという事が、合楽の信心なんです。
 神様の働き、神様が私に求め給うところの、御事柄でしょう、ですから、その様な敬虔な思いで、もし頂いたとするなら、確かにお徳を受けるだろう、人が助かる様になるだろうと、私は思います。
 その辺のところがあまりに、ザッとなっとる様な感じがするのです、この神様は、不思議な神様でね、ちょこっと神様がお喜びなさる事と思うただけで、おかげ下さる神様です、だから、そう云うところだけに……かけた信心ではおかげにならんです、云うなら健気な事を云う、健気な事を思うだけで、そこに有り難いものが湧いて来る位です。
 昨日がそうです、高芝さんがお参りして見えてから、長男の昌生さんの事をお届けされました、大変難しい事のお願い、だから、お父さん。僕は今度、おかげを頂いたならば、いっちょ合楽の方に土地を買って家建てち、お父さんの信心ばどうでん受け継がにゃ出来んち、昌生が云いよります、そげな事云えば、神様がコロッと参ってしもうておかげやんなさるもんねと云うて、笑い話した事です。
 笑い話しじゃない、本当に確かにそうなんです、ならそれは、嘘じゃなないからなんですよ、実際実行出来なくってもです、親の信心を継ぎたい、今度おかげを頂いたら、合楽の近所に、家を建ててでも一つ、お父さん、僕はお父さんの信心を受け継がねばと云う姿勢をね、作った訳じゃないけれども、その時思つた事は嘘じゃない、それを高芝さんお取次ぎを願うけど、この神様は、そういう風に云うとコロッと参ってしもうて、おかげやんなさるもんねと云うた事です。
 皆さんも、胸に手を当ててご覧なさい、そう云う事思うただけで、おかげ頂くでしょうが、実祭実行出来なくったって、この神様は、そう云う神様なのです。
 だが、それは、しかし余りもの信心、その時ぎりのおかげですから、やはり、金光大神の云う事に背かぬ様に、よく守って信心せよと仰せられる、そこで、金光大神は、どういう風に云うて下さるか、いつも云うて下さる、芯はどこなのか、愈々本心の玉を研かなきゃならない、改まって行かなきやならない、お取次ぎを頂いて、すべての事。
 お取次ぎを頂いて起きて来る事、良い事、悪い事、みな良い事だという確信、お取次ぎを頂かずして、起きて来る事は、良い事、悪い事、みな悪いと云う結果しかでないんだと云う、その思い込みが、金光様を信心させて頂く者の、信心態度である、同時に信心を進めて行く態度、姿勢としては、ただいま申しました様にです、愈々その事を通して、その難儀なら、難儀を通して、改まる事の上にも、又、研いて行く事の上にも愈々和賀心を目指しての、信心にならなければならない、そう云う信心をさせて頂いて、まさかの折とは、突発的と云うのではなくて、私が、今日頂かして頂いた、次々と手形が3月も続いて、しかも、こう云う高額な今までとは違った、沢山の金額の手形であるから、今度はもう、難しかの、倒産するも良かろうと思いよりますと、それで、子供どんやら、家族中の者が、シャンとすりゃ、それでよございますと云う意味の事云いよったら、神様がそう云う時こそが、まさかの時ぞと云う。
 だから、まさかの時のその事をです、お願いをするからには、家和中が改まって、家和中がお取次ぎを頂いて、お縋がりする気になれば、神様がOKを出して下さろうと云うのだから、おかげ受けなければいけんでしょう。
 今日は、御理解四節をそういう風に聞いて頂いた訳です、まさかと云う時は、私共は、只、本当にアッと云う瞬間的の出来事の様に頂いておったのを、そうではない、私共は、まさかの時と云う事が、もう  あると云う事です。
 これだけは、いっちょお願いせねば、おかげを頂かねばと云う事が、だから、そういう場合に、なら、その時だけ願うと云うのでなくて、金光大神の云う事に背かぬ様に、良く守って信心せよと、なら、金光大神は、どう言云う事をいつも、私共に教えて下さるかという事を、焦点において、思うて見ると、答えは、すぐ出て来る訳ですよね。   どうぞ。